りゅうよう 子揚 しよう
廬江郡ろこうぐん ] (? ~ ?) 
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劉 曄(りゅう よう、生没年不詳)は、中国、後漢末から三国時代にかけての政治家。魏の重臣。家系は劉氏。字は子揚。淮南郡成悳県(安徽省寿春県)の人。後漢の光武帝の庶子である阜陵質王・劉延の子孫に当たり、王族系の名門の出身であった。成悳侯・劉普の次子。劉渙の同母弟。子に劉寓、劉陶。同族に幽州牧の劉虞がいる。 生涯 7歳の時に母の脩が病で亡くなった。臨終前の母は「あなたの父の近侍の一人は悪質な奸臣だから、あなたが成人したら彼を取り除く(=殺害する)ように」という遺言を残していた。劉曄は13歳になった時、生母の遺言に従い、その奸臣を誅殺しようと同母兄の劉渙に相談したが、劉渙は受け容れなかった。そのため劉曄は一人で奸臣を殺害した。これを知った劉渙は弟を非難したが、父の劉普はこれを抑え、劉曄の気持ちを察し、彼を咎めなかったという。このことによって、彼は許劭(許子将)から冷静沈着で豪胆な人物だと評された。 揚州で大きな勢力を誇っていた鄭宝は住民を追い立てて長江南岸へ渡ろうと計画していたが、 劉曄が高貴な家柄なので、劉曄をこの計画の首謀者に祭り上げようとした。

劉曄が登場する文献

1-147,1-154,1-221,2-129,2-290,2-430~431,3-48,3-218,3-490,4-122,5-196,6-94,7-72~73.

劉曄の一族

No Data